人をバカにすると言うことが平気で出来る
そんな同僚が信じられない。
そんな同僚が複数いるこの環境が信じられない。
彼が言われてどんな気分かなど
想像したくもない。
彼らがどんなつもりでその言葉を口にしてるかなど
知りたくもない。
ああ、ここを抜け出したい。
多分普段ならスルーしたり出来るんだけど
既に全てがマイナスに見えるメガネが掛かっているので
横でそう言うやりとりを遣られて、
そんなもん聞きたくないとアピールするかのように
設計中の独り言を無駄に大きな声で言ってしまった。
いつも通りできたのは
席に帰ってきた彼と出来るだけ普通に話すことだけだった。
特に励ましたり
アドバイスも出来ず。
でも、
空気に呑まれて人を判断するより
遙かにマシだと
思ってる。
普段からいつも思ってる。
Aと言う要素を巧くできない人がいて
だからって
Bも出来ないことを前提にしたり。
Aが出来ないことによって生じたマイナスイメージを
引きずったままに根拠もなくBを判断するというのは
アンフェアだと思う。
足し算が出来ないからかけ算が出来ないだろう、
ならわからないでもない。
だけど
足し算が出来ないからって、足が遅いかということ。
「まさか」と笑うか?
ならば私が貴方を笑おう。
「本当にそう言う判断をしていないか?」
お前が嫌いな人間は、
全てお前より劣っているのか。
Aをお前より巧くできない人間は
全てをお前より巧くできないのか。
割と小さい頃から
そう言う一般的な好き嫌い判断で人を見れず
「目の前にある状況がAからBに変わったら
そうじゃない可能性だってある。
ならば
彼に抱いている全ての既存イメージは払拭して
ニュートラルに見るべきだ。」
って人付き合いをしていたら
「彼」と一緒にいるからと言う
もっと理不尽な理由で
自分も割とつまはじかれた。
貴様等の考え方のほうが理解できないと
半ば諦めていた。
今にして思えば
私も
Aを巧くできない人
単に嫌われた人
だったのかも知れない。
それでも
自分の考え方は間違っていないと
思ってる。
……この方が独善的か。
空気に呑まれ
雰囲気に流され
根拠もなく
風説に囚われ
自分もなく
自意識もなく
根拠も
証拠も
論拠も
何もなく
極めて狭い側面にだけ恣意的にスポットライトを当てて
そうして人を判断することの方が
主流ならば。
大勢ならば。
多数ならば。
私の考え方が
私の人付き合いが
私の生き方が
それこそが
独善的で
意味のないものなのかも知れない。
偽善じゃない。
本当に
私は滅多なことで人を嫌いになることはない。
嫌いになる要素なんて
その人の小さな一面でしかないことの方が
実際の所多いのだから。
ちゃんと
ちゃんと人を見れば
みんな自分より凄い人ばかり。
みんな私より優れた人ばかり。
だから人を嫌いになんて慣れない。
そんな傲慢なことは出来ない。
ああ、でも
人を嫌って
それを周りに振りまき続ける人は
あまり好きにならないかな。
嫌いにならなくても積極的に近付かない。
自分も好いて貰えないと思うから。
別に好き嫌いを無くせなどとは思わない。
それについては私が異常だと思う。
多分「自分」がないんだと思う。
だから異常だと思う。
やはり
わたしが
まちがっているのか。
KY(空気読めの略)が何かと取り沙汰される昨今、皆様いかがお過ごしでしょうか。
このblogの世迷い言カテゴリは
「KY!」
って叫ばれそうなことを敢えて書き連ねている所存で。
空気を読む能力。
私は非常に重要な能力だと思います。
また、世間でも重要だという風潮もあり、
この言葉が頻繁に話題に上がると言うことは、
皆多かれ少なかれ気になっていると言うことでしょう。
ただし、これをよしとしない論もあります。
所謂ビジネスシーン、特に欧米かぶれしたそこにおいては
弊害になると言う論だ。
彼らはこういう。
「空気を読んで意見を一致させたつもりでいたが、
蓋を開けてみると重大な齟齬があった。
空気を読むことに頼った結果、認識の差に気付けなかったのだ。」
「アメリカではそんな能力は逆に不要だとされますね。
どんどん質問して、意見を言う。」
まず、私の立場を明確にしておきます。
・形式に対して劣性を持つ
・場を「無駄に」悪くしないための最低限の察知能力である。
・持つべきなのではなくて、持たないべきではない能力
(つまり、特殊能力ではなくて、極めて普遍的・基本的な能力)
この範囲を逸する行為は「空気を読む能力」によるものではなく
「空気を読む能力を拡大解釈した」もので、
それは善悪問わず「空気を読む能力」によるものではないと考えます。
最近の「KY」の取り上げられ方は
明らかに拡大解釈が進んでいる。
「空気を読む能力」はそんな特殊能力でもないし
そんな劇的な変化をもたらす技でもない。
むしろ、既に誰でもやっているレベルのこと「しか指さない」筈だ。
たまにいる、「本当に場の雰囲気を理解できない人」
に対してのみ使うもので、
「最低限のマナーを守れない人に対して使う言葉でもない」
この点が重要で
「マナーを守る」と「空気を読む」が混同されすぎている。
これが拡大解釈の例の1つで
これによる着ぶくれがかなり大きい気がする。
この混同は分離すべきで、
空気を読む能力は世間で騒がれている
「亡霊(≒イメージ)」から比べると
よりコンパクトな能力となる。
余談だが、
マナーを相手への気遣いや規律ではなく
雰囲気で何となく守っている姿勢の顕れであり、
この姿勢が紛れもなくこれを守る意思の低下に繋がっていると思う。
もう一つは
「口に出さない」読み方の誤り。
よくある
「スルーすべきポイントでスルーできるか否か」
という奴だ。
これは勿論、空気を読まないといけない行為だが
簡単な対人関係での言葉のやりとりで使う場合のみに該当する。
つまり、
会議などで「なんか他の人は解ってるみたいだし・・・」とか
「ここでこれを言うと長引くしなあ」というのは
「空気を読む能力」として含まれない。
含まれないという言い方は語弊があるかも知れない。
正確に言うと「含むべきではない」だろうか。
これが先のビジネスシーンで障害になるという場合に該当するが
ここで「質問をする」「意見を言う」ことは
「空気を読まないこと」ではない。
強いて言うなら「空気を読むこと」でもない。
そのもっと先にある判断であって、
雰囲気の読解は範疇にあるべきではない。
空気を読まなければ質問するかも知れないが、解らないなら当然で
理解しているなら自然と質問などしない。
空気を読んで意見を言う場合も、それは必要な意見だからで
気になる点がなければ空気を読まずとも意見など無い。
すなわち
こういう場面では空気を読む読まないは実質的には関係なく、
会議ではどのように意見交換をすべきかという基本的な意識の話でしかない。
それを「空気を読む能力」の功罪にすり替えるのは愚の骨頂だ。
強いて言うなれば、
解らなさそうにしている人が危機あぐねている雰囲気を「読んで」
代わりに質問する、
誰もが同意しているにも拘わらず反対意見を封じ込めようとしている場を「察して」
反対意見の有無を改めて聞く、
等、
空気を読んだ上でどう立ち回るかによって
よりスムーズに事が運ぶのは目に見えている。
重要なのは読んだ上で、所謂「KY」な行動を取るかどうかだ。
では読めた方がいいのか。
ここまできてこういうのも変な話だが
拡大解釈を除いた「空気を読む能力」からいえば
このようなシーンでのこのような行為は
いずれも「空気を読む能力」に含めるべきではない。
一番最初に立場を明確にした際に示した
「形式に対して劣性」の範疇をはみ出しているからだ。
会議というフォーマルな形式を前提としている以上は
私の立場から言えば、
それは空気を読む行為では「あってはならない」と思っている。
(広義の)ゲームで言うところの
「ルール」と「プレイング」の差と言うところだろう。
ルールは守らなくてはならないが、プレイングは自由だ。
(フェア・アンフェアあるかも知れないが)
但し、ルールを犯さない範囲でに絞られる。
空気を読むというプレイングは使っても使わなくても構わない。
但し、会議というルールは守っての範囲で。
「解らないのに質問しない」というのは、
ルール違反か否かが論点であって
これは
空気を読むか否かというプレイングは見ていない
(見るべきではない)筈だ。
ルールを守るために読むのもアリだし、
読まない結果ルールを守れたのもアリだ。
会議というルールの下では、論じられるべきではないのだ。
だから
「空気を読む能力」は「形式に対して劣勢なもの」のみを含み
そうでないものは拡大解釈であるという立場を取る。
マナーとルールは非常に似ている。
相手を思いやることか、
思いやれなかった結果に規律となってしまったものか。
そしてこの二つを切り取ったときに残るものだけが
「空気を読む能力」として適正なものな筈だ。
今論じられている「KY」は
「ツンデレ」に似ている。
言葉として新しく持ち出しただけで、
あたかもそれが全く新しいものであるように見せ
そして独りでに膨れ上がる。
以前にも書いたと思うが
虚実にお金を転がすだけでお金があるように見える
マネーゲームにあやかって
実体がないのに言葉を転がすだけで実体があるように見えて大きくなっていく姿から
ワードゲーム
とでも言おうか。
「空気読む」能力の実体を忘れている。
着ぶくれた部分の喰らい判定が無駄に色々なものにHITして
ダメージを受けたり与えたりしてるように見えるな。
空気読まないと、空気読まないと、っていう姿勢その方が問題だ。
先にも書いたとおり
殆どの人は、既に持っている。
その感覚に従っていけばイイだけの話で
戦々恐々とするようなものではないと思うのだ。
その先はルールやマナーの問題で
これはナイーブなものだから気をつけなければならないが
空気を読むかどうかではない。
そう言うことだろう。
小学校だか中学校の頃
理科の時間に
「海に向かっておしっこしたら、
海の水面はどれくらい上昇するでしょう」
という問題を先生に出された。
水が増えるんだから
ほんの少しは上昇するだろうと思っていた。
頭のいい奴が、海の表面積とおしっこの体積から
何とか求めようとしていたようだが
先生が
「海面は上昇しません」
という答。
海の表面積でおしっこの体積を割った値が水面の上昇値かなと思ったんだが、
この値が水分子の大きさよりも小さい場合、
海面は上昇しないという
なぞなぞのような問題だった。
アルコールと水と界面活性剤(水と油の分離を防ぐ)を1:1:1で混ぜると
合計の体積が3より小さくなるという現象もあるようですし、
(大きな分子同士の間に小さな分子が入り込むことで体積が減るらしい。重さは変わらず。)
そういう回答でいいのかは私は知りませんが。
とにかく、
分割後に単位値未満になる上昇について、
数値としてはともかく
実体としてこれはないと等しいということが興味深い。
___________________________________________
たとえば
いかなる他者とも関係を持っていない人間が
自分が自分を嫌いという理由で
自殺した場合
これは当人が消えたことによって
何ら「幸福リソース」は変わらない。
当人が負のイメージを抱いている対象が消えるのだから
当人にとってプラスかもしれないが
そのプラスを受け取る人間がいない。
生み出された「幸福リソース」は立ち消える。
自分が負のイメージを抱く対象が消えれば
「幸福リソース」は「負」で吸収されていた分だけ再創造される。
正のイメージを抱いている対象と接していれば、
「幸福リソース」は創造される。
人と人との関わりは、
こうしたリソースの生産と消費によってバランスが保たれていると思う。
相手を喜ばせたり助けたりする「正の生産」と
それをしてもらう「消費」。
また、相手の嫌がることをすれば「負の生産」になる。
問題はその収支で、
人にいいことをしてもらった場合、
相手は生産し、自分は消費している。
自分は消費した分で生産して、またほかの人に与える。
その収支の決算が赤字の人と黒字の人と存在していて、
赤字の人間が多いと、
つまり、
指定された空間における総収支が赤字だと
その空間における「幸福リソース」は枯渇する。
そういう地域では、無益な争いなんかが絶えず起こっているのではないか。
総収支が黒字の空間は、それなりに
少なくとも精神的な安息は維持され、それによる治安なんかの向上もあろう。
_____________________________________________
今までの人生で、
むしろ最近が一番酷いが
私は消費しっぱなしで生産していない。
色んな人に支えて貰ったり元気を貰ったり
厚意を受けたりしてるし
迷惑をかけて
人の足を引っ張ってるのに
私はその分人に何も出来ていない。
______________________________________
私のような人間が
その空間のリソースを食いつぶし、
世界に私のような人間が多いから
不幸が絶えないんだ。
私のような人間が消えれば
きっと「負の生産」が減るから
収支としては「正の生産」を再創造出来るはずだ。
但し、そこには問題があって
私が本当に多くの人間に迷惑をかけている場合に
私が自分自身の存在を消し去ったとしても
迷惑を受けている数多から見ればリソースが増えない。
但し、私のような人間が同様に多数居た場合
リソースの減少は目に見えるし
しかしそういう穀潰しを一人二人消し去っても
リソースの減少に歯止めをかけることが出来ない。
止めようと思うと、食いつぶしている存在を大量に粛正する必要がある。
きっと私のような存在が沢山世界に散らばっていて
だから世界は慢性的に飢餓状態なんだ。
_______________________________
私が価値を持って存在を消したいなら
少数の人間への「負の生産」出なければならない。
それは逆になんと難しいことだろう。
広く薄く、「消費」し続けるからたちが悪いんだな。
せめて一人にがつんと迷惑をかけているだけなら
少なくともその人から見れば
「やれやれせいせいしたぜ」
となってくれるのに。
___________________________
迷惑を振りまきながら
ひたすらに消費し続け
生産しない。
なのに消え去っても挽回すら出来ない。
なんてたちの悪い存在だろうか。
年末辺りに何の番組かを見ていて、
プライバシー権というものを
「自分に関する情報の流れをコントロールする権利」
と言っている誰かがいた。
誰だったかは思い出せないし、
番組の内容もそこに重きを置いたものではなかったのと
そもそもそこで出てきたのはプライバシー権を単なる前提としたその先の意見を言う場であったので
その発言はただの前提として流された。
ただ、私はこの表現がとても気に入った。
一般的にはプライバシー権とは
このように
捉えられている。
「他から隠されており干渉されない状態を要求する権利」
つまり、端的に言えば
「秘密を秘密として保持しておく」権利だ。
(便宜的に「秘密主義的プライバシー権」とする。)
さて
「自分に関する情報の流れをコントロールする」権利
と言う表現は、
今日の情報社会に即した体をなしている。
つまり、
自分に関わる「秘密」も全て「情報」の一部であるというスタンスを保持している。
そして何よりも気に入ったのが
この表現だと、情報を隠匿することは当然プライバシー権として認められるが
「自らの意思で解放すること」
「外に流れた情報を制御すること」もプライバシー権に含まれる点だ。
(便宜的に「制御的プライバシー権」とする。)
秘密主義的プライバシー権は、
その情報を「脳の思想」以上の形態にした時点で破られる。
実質的には情報として意味をなさないし、実現不能だし、何よりそこに権利を主張することがナンセンスだ。
一切口に出さなければよい。体で表現しなければよい。
秘密主義的プライバシー権が叫ばれる背景には
一定の範囲までは、その情報を流布したいという
言ってしまえば非常に身勝手な思想が絡む場合がある。
「おまえ、それ勝手に人にバラしてるんじゃねーよ」
というのは、
「お前」への情報の開示は構わないが、それ以上先への開示は許さないという発言だ。
制御的プライバシー権は、
このプライバシーのあり方もキャッチしている。
それ以上よけいに外部に流れることをコントロールできるという権利で
「お前」に、
勝手に言いふらさないことを、そして場合によっては言いふらすことを保証させるのだ。
実現不能という点では
秘密主義的プライバシー権と同じだが、
秘密主義的プライバシー権の持つナンセンスさはない。
「権利」として非常に魅力的な者を保持している。
あのー。
非常に個人的でレベルの低い話になってしまうんですが。
私は、
「この人にならこの情報を提示しても大丈夫だろう」
という確信の元に、とある情報を提示します。
これは私自身の核心に関わり情報であり、
出来れば誤解や色眼鏡による認識を避けたいので
非常にナイーブに
・可能な人に
・大丈夫なタイミングで
・こちらが意図する情報量だけ
を開示し、
最終的に
提示したい全てを
誤解や先入観を可能な限り除いた形で伝える
という処世術を取っています。
臆病ですねそうですね。
このコントロールが「制御的プライバシー権」の一部と言うことが出来ます。
秘密として保持して頑なに居るのとは違う。
で、ここまでは割と巧くできてるんですよ、個人的に。
その情報は何の前触れもなく突然提示すれば
強烈な先入観を与え、ひいては誤解に繋がる。
今のところ、そんなに酷いことにはなっていません。
巧くコントロールできていると思っています。
ただ
一回リリースした情報を
私から受けた人が
私が意図したコントロールレベルで扱うとは限らないんですよね。
私は緻密に計算した漸進的な情報開示をするんですが
その情報を受けた人は私の意図なんか関係なく
先に述べた「先入観や誤解を招く前触れのない突然の開示」をすることがある。
っていうか、
そういうことが多い。
勘弁してください。
私は相手を全面的に信用したから「信用した相手への前進的な開示」という形を取りながらも伝えるが
相手は「ああ、バラしてもいいことなんだ」と思っている節があるんだろうな。
「こいつ○○でさあ」
(ちょっとまて、今この場でさらっとそれを言ったら明らかに私誤解されるじゃねーか!)
はい、この人へ慎重に情報を伝えた苦労は水の泡。
どころか、この人を信用したことそのものが仇となって、まずいイメージを振りまくことになる。
いきなり開示した人にとっては
・別に話しても大丈夫
・そもそも秘密だと思ってない
・ただの「弄られ」ターゲットから逃れるために、より魅力的な「変」を贄にする手段として
と
色々あると思うが。
ここに来ると
「制御的プライバシー権」を全面的に実施したいと思うわけです。
つまり、
当然実現不能なのは解って居るんですが
私がプライバシーとして保持したい情報に関しては
「このこと、この人に、これくらいの量、話しちゃってイイ?」
っていうパーミッションが必ず付属させたい。
はいはい、私のわがままですよ。
やっぱり秘密主義的プライバシー権を徹底するべきだったのかな。
全き普通の人を繕って永遠に脱がない仮面を付けていた方が痛くないかも知れない。
個人的にこういう秘密の持ち方は身を滅ぼすだけだという信念はあるんですが
今になってその信念も崩れかけています。
黙せ、黙せ、黙して隠せ。
これしかないのか。
自分が予期せぬ開示に晒されるならまだいい。
せめて自分は。
相手の信頼を裏切るような口の軽さだけは
発揮しないように
生きていかないとな。
平たく言えば
口の堅い人が信用されるというのは
こういうことだろう。
よくよく、肝に銘じたまえよ、私。
世界33カ国が共同で制作した
(というか、各々が独自に1つのテーマに沿って別々に制作した)
ドキュメンタリー
「民主主義」
と言う番組が放映されています。
民主主義についてそれがどうあるべきなのか、
その現状などを取り上げてドキュメンタリーとしている
複数の作品群だが
これは面白い。
まあ、番組の内容は
気になる人は何らかの方法で見ていただくとして。
民主主義と資本主義は本来別物であって
それはバンドル化されて語られるべきモノではないと言うか
理想から言えば
最初は完全に切り離されて考えられ、
その後に融合すべき部分があれば別物であることを前提として
必要な部分においてのみ同一に扱われるべきだと思うんですが
どうしても
予め別に見るスタンスは破棄されていますね。
これはある意味でイデオロギーを論じる際には問題だと思うんですが
どうなんでしょうか。
両者は国民の「幸福」を国民自らが作り上げることが可能である思想として共通していると思いますが
その「求める幸福」と目的・手段は全く以て別だからです。
政治を扱う学問や、経済を扱う学問の上では恐らく切り離されているでしょう。
そうでなくても、誰もがこの二つは別物だという知識は持ち合わせているはずです。
ただ、その二つが明らかに別物だと確信できるような「現実」が
あまりにも目立たず、
それを伝える情報がやはり希薄で
現状としては
先に述べた両者が既に癒着した姿ばかりが伝えられています。
その分離が不可能であるならば、
不可能であるという証がやはり必要で、
分離できるモノならば分離できている現実か、
その論が上がってもいいはずですが
両者においてその基盤の存在感が薄い。
私が思っているほど
その両者の差はないモノなのだろうか。
それともそれが別物だというのは
既に語るに足らないほどの小さなことなのだろうか。
(つまり私の両イデオロギーに対する認識が単に足りないのか)
やっぱり政治と経済は切り離せないでFAてことですかね?
そういえばファシズムは悪の権化の様に言われていますが
現在の民主主義ってファシズム的ですよね。
内向には暴力的独裁的に「自由」を謳い、
外向にはその「自由」(正確に言えば自分たちが定義した自由)
を押しつける。
所謂「(揶揄的な意味での)グローバリズム」を孕んでいる気がする。
本来、博愛自由の精神を実践するなれば
「グローバリズム」ではなく
「インターナショナリズム」の下で
「国際化」しなければならない筈だ。
そしてその問題は
グローバル化を行おうとしている相手が
「ジハード」を容認(むしろ推奨)しているような過激な相手である場合に顕著になるのではないか。
アメリカのやり方は明らかにファシズム的なグローバリズムに立脚しているように見える。
但し、その相手も。
ファシズムが悪とされた根本だけでも見直さないといけませんよね。
一面としてはは国力の保全を理想とする側面を持っていて
そこだけ切り取れば悪くはないのですが。
先も述べたように
内向として独裁的、
外向として侵略的だったから悪だったんですよね。
……それって……。
民主主義が本当に正しい思想なのかというのも
今ひとつ説得力に欠ける気がするし……
あー……
べんきょうしなきゃわかんねーよこんなことー……
脳みその性能がたりねー……













